日本の城

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掲載城址 目録

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江戸城 第十回

江戸城 第十回

【遺構】
江戸城西の丸屏風絵図
江戸城西の丸です。前回、掲載した二重橋を渡った奥に位置しており、現在は皇居宮殿となっている為、一般人の立ち入りは制限されております。その為、中に立ち入ることが出来ず、写真はございません。この西の丸はちょうど、本丸の南西に位置しており、丘陵に設けられた郭で、ここに徳川家康隠居所を建てた事が始まりのようです。寛永元年に(1624)に本格的に西の丸御殿が造営され、2代将軍徳川秀忠が将軍職を引退した時にここに移転しました。それ以降、将軍を引退し、大御所になった前将軍の、或いは次期将軍の為の御殿や火災により本丸御殿が焼失した際の一時的な将軍の居所として使用されていたようです。前将軍が大御所として入った際には御三家はじめ、各大名・諸役人が月次や行事の為の総出仕の際などには本丸への登城の他、西の丸への出仕も義務付けられていたようです。寛永元年に造営された御殿はその数年後、同十一年(1634年)に焼失してしまいましたが、慶安三年(1650年)に4代将軍 徳川家綱の為に御殿が再び、造営されました。その規模は既存の本丸御殿よりも小さく、かなり省略されていたようですが、広間や白書院などの表、御座の間・休息所・御小座敷がある中奥、御鈴廊下で繋がる大奥などがあり、本丸御殿に準ずる構造となっていたようです。その後の明暦の大火で本丸御殿が全焼した際も類焼を免れ、途中修繕が加えられながらも、約190年の長きに渡り存続していました。しかし、天保年間の辺りに焼失してしまったようです。その翌年には御殿の再建が始まったが、新造された御殿も嘉永・文久年間に焼失してしまったようです。この文久年間の焼失後、再建計画中に本丸と二の丸も焼失し、江戸城にはまったく御殿のない状態に陥ってしまいました。そこで、幕府はこの西の丸に将軍の仮御殿を急造することにしたようですが、幕末の動乱と財政難によりそれまでの御殿と異なり、極端に簡略化されたものが作られたとのことです。その仮御殿も明治維新後の明治六年(1873)に焼失してしまい、現在の皇居宮殿が建てられ今に至っているようです。

江戸城 内桜田門
江戸城 内桜田門2
江戸城登城風景図屏風内桜田門
江戸城屏風絵図内桜田門桜田二重櫓
江戸城内桜田門古写真
江戸城 内桜田門(桔梗門)です。基本的に常時閉鎖されており、入り口には常に警備員が常駐し、厳重に閉鎖されておりました。恐らく、この門を入った先に、皇宮警察がある為、警備が厳重なのではないかと思われます。一方で皇居参拝者や勤労奉仕の人達も出入りをする門のようで、年始の宮中参賀では出口専用の門になるようです。この内桜田門には別名として、桔梗門と言う呼び名がついておりますが、その由来は門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていた為と言われているそうです。この内桜田門は江戸城三の丸の南門に辺り、往時には幕府の要職者が登下乗する門であったようです。表には下馬の札が掛かっており、ここより先は徒歩での登城となっていたようです。3枚目屏風絵図と一番下の古写真を見て頂くと、下馬札が立っているのがわかると思います。当時から警備は厳重で、この内桜田門(桔梗門)を経て江戸城内に入った大名はこの先の中之門、中雀門を経て遠侍、大広間へと進んで行くルートで登城していたようです。

江戸城桜田二重櫓辰巳櫓1
江戸城桜田二重櫓辰巳櫓2
桜田二重櫓(辰巳櫓)です。皇居前広場の内濠(桔梗濠)から簡単に撮影ができる為、映画やTVで江戸城と言えばここがよく映されているように思います。この櫓は江戸城に現存する唯一の隅櫓で往時には櫓の中には有事に備え、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていたようです。白亜の漆喰で塗り込められており、出窓状に突き出された石落しがあり、弓・鉄砲の狭間も備えられ、有事の際の軍事設備の一つとして機能していた事が見て取れます。往時にはこの他に二重あるいは三重の櫓が二十程もあったようですが、今ではこの辰巳櫓と富士見櫓・伏見櫓の3基のみとなってしまっております。写真ではわかりづらいと思いますが、この櫓の規模や大きさ、二重櫓としての床面積は、その他の城の二重櫓を遥かに凌ぐもので、往時にしてもまさに最大級のものであったようです。そういった部分に思いを馳せて頂くと、軍事要塞としての江戸城の魅力を垣間見ることが出来ると思います。

江戸城 第11回へ続く・・・

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江戸城 第九回

江戸城 第九回

【遺構】
江戸城大手皇居正門
江戸城2重橋2
江戸城大手皇居正門2
江戸城2重橋付近古写真
江戸城2重橋1
江戸城二重橋鉄橋
江戸城2重橋付近屏風絵図
江戸城西の丸大手門屏風絵図

江戸城二重橋と西の丸正門です。この橋の奥の門は現在は皇居の正門と位置付けられております。しかし、江戸期には西の丸の大手門として利用されておりました。現在残る、大手正門の建造は3代将軍 徳川家光の時代と推定されているようです。当時はこの門の前に高麗門が設置され、他の門と同様に桝形が形成されていたようです。一番下の拡大した屏風絵図を見て頂くと分り易いと思います。橋を渡りきったところに高麗門があり、左に折れたところに渡櫓門が見て取れると思います。現在の形になったのは、明治21年(1888年)の 明治宮殿造営時に坂下門と同様に手前の高麗門を撤去し、奥の渡櫓門を現在の場所に移築したようです。今の感覚からすると、貴重な歴史的建造物を破壊し、形を変えてしまうのは、何とも勿体無い気もしますが、当時は急速な西洋化を行う必要があり、致し方なく行ったものと思います。当時の姿を見れないのは残念な気もしますが、完全に破壊されずに残っただけ、ありがたいのかも知れませんね。
最初の橋を少し進んで頂くと、手前の正門石橋の奥にもう一つ鉄橋があり、順路としては、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋を通り西の丸御殿へ進む形になります。実はこの奥の橋が二重橋の名前の由来となっており、江戸期には木造橋が架けられており、橋桁が上下二段に架けられていたようで、そこから、「二重橋」と呼ばれるようになったとの事です。橋桁を二重にした理由は、ここの濠が大変深い為、橋の上にもう一つの橋桁を乗せることにより、お濠の深さをカバーしていたようです。良く、同じに濠に2つの橋が掛かっているからとか、手前の石橋が二重アーチ構造となっている為、二重橋と呼ばれていると言う認識を持っている方がいるようですが、それは誤りです。
江戸城伏見櫓多聞屏風絵図
江戸城伏見櫓多聞
江戸城伏見櫓です。この伏見櫓はの左右にはかなり大きな多聞櫓も残っており、当時の異様を忍ばせます。江戸城に残る築城当時の数少ない遺構です。写真でみると双方の建物が連結しているように見えますが、建物と建物の間には土塀があり、それぞれ独立した形状で建っているようです。建造は江戸城築城の第二期(3代将軍徳川家光の時代)の寛永五年(1628年)に京都伏見城から移築したものと伝えられているようですが、それは俗説との見方もあり、実際のところは不明です。別名で「月見櫓」とも呼ばれており、皇居で最も美しい櫓とも言われているようです。櫓の高さ約13.4メートルあり、石垣も櫓も堅牢に出来ておりあの関東大震災でも崩れなかったそうです。 この伏見櫓には一つ逸話が残っております。慶長五年(1600年)に徳川家康の天下統一をほぼ決定付けた関ヶ原の戦いが起こったことは有名だと思いますが、実はその戦いの直前、前哨戦として、伏見城の戦いが起こっております。その際に籠城側の武将に徳川家の家臣鳥居元忠と言う武将がおりました。三河以来の譜代家臣で家康が絶対の信頼を置く、側近の一人でしたが、この戦いの時に西軍の開場要求を拒絶した為、攻城側の総攻撃を受け、城を枕に壮絶な討死を遂げました。この時の鳥居元忠の壮絶な忠義を賞賛した家康が、この江戸城伏見櫓の階上に元忠、自刃の際に血に染まった伏見城の畳をおき、登城した大名たちに鳥居元忠の精忠を偲ばせたと言う事です。現在、その畳は幕末明治維新時、江戸城引渡しの際に栃木壬生の精忠神社(鳥居元忠を祀った神社)に引き取られ、神社脇の畳塚の下に埋められたようです。また、この時の伏見城の床板は、「血天井」として京都の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられております。こちらの方が有名かも知れませんね。それにしても、当時の武士の忠義と言うのは凄まじいですね。現代ではそういう思考はほぼ皆無だと思います。因みにこの鳥居元忠の子孫には忠臣蔵の赤穂浪士 大石良雄(通称 大石内蔵助)がおります。この忠義心はまさに遺伝なのかも知れませんね。

江戸城 第10回へ続く・・・

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【拡散希望】被災者の方に有用と思われる情報【東北地方太平洋沖地震】

【拡散希望】被災者が生き延びるために。←被災者の方に有用と思われる情報集です。
かじぺたのもっとデンジャラス(そうかも)ゾーン様より転載させて頂きました。

-----------------------------------------------

電話回線には限りがあります、
なるべく現場への安否確認の電話はやめましょう。

公衆電話、無料化。拡散お願いします。

グーグルが Person Finder: 2011
日本地震 を立ち上げました。 http://bit.ly/ebNMey

災害用伝言ダイヤル「171」被災者の方
1.伝言ダイヤル「171」を押す。
2.自宅の電話番号を押す。
3.伝言を録音する。

◆安否を確認したい方
1.伝言ダイヤル「171」を押す。
2.安否を確認したい方の電話番号を押す。
3.録音された伝言を再生する。

通信各社の災害用伝言板
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1531519&media_id=32

通信各社の災害用伝言板は以下の通り。

【関連記事:「災害用伝言板」横断検索、携帯・PHS各社が導入へ】

▼NTTドコモのiモード災害用伝言板サービス
→http://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/110311_01_m.html

 伝言板にメッセージ登録が可能なのは
青森県、秋田県、宮城県、山形県、福島県。

 PCからメッセージを確認する場合は
http://dengon.docomo.ne.jp/top.cgi。

▼KDDIの災害用伝言板サービス

 EZWEBトップメニューかauoneトップから災害用伝言板へ。

 安否情報の確認は
http://dengon.ezweb.ne.jp/。

▼ソフトバンクモバイルの災害伝言板
→http://mb.softbank.jp/mb/information/dengon/index.html

 Yahoo!ケータイの災害用伝言板メニューか
My Softbankからアクセス。

 安否情報の確認は
http://dengon.softbank.ne.jp/。

▼NTT東日本
→http://www.ntt-east.co.jp/saigai/index.html

 災害用伝言ダイヤル「171」と
災害用ブロードバンド伝言板「web171」。

▼ウィルコムの災害用伝言板
→http://www.willcom-inc.com/ja/dengon/index.html

 ウィルコム端末からのアクセスは
http://dengon.clubh.ne.jp/。

 他社携帯やPCからのアクセスは
http://dengon.willcom-inc.com/。

▼イー・モバイルの災害用伝言板
→http://emobile.jp/service/option1.html#saigai

 アクセスは、ブックマーク(お気に入り)→
EMnetサービス→災害用伝言板→災害用伝言板トップページ。

 安否確認は
http://dengon.emnet.ne.jp/。

「災害用伝言板」横断検索、携帯・PHS各社が導入へ

被災地以外に住んでる方以外安否確認の電話極力しないで!
▼ 2011/03/11 18:24
M8.8に修正 国内最大規模地震
view_news.pl?id=1531696&media_id=2

コピペしてくれ。電話使うな。
んでもってみんな無事でいてくれ
災害用伝言ダイヤル「171」
◆被災者の方
1.伝言ダイヤル「171」を押す。
2.自宅の電話番号を押す。
3.伝言を録音する。
◆安否を確認したい方
1.伝言ダイヤル「172」を押す。
2.安否を確認したい方の電話番号を押す。
3.録音された伝言を再生する。

地震が起こったら、
必ず窓を開けてください。
そして、家にいる人は、今、お風呂に水をためてください。
まだ、電気が通じる人は、ご飯を炊いてください。

阪神淡路大震災の経験から、皆さんに伝えます。
X字の亀裂が入っているとこはすぐに崩壊するから注意!
携帯と充電器、ラジオ、ペットボトル水必要!
ヒール履いてる人は折る!

食料は最低3日間は自立しなきゃいけない。
トイレは基本ないからビニール袋を。
火事などの2次災害に注意!

パニックになったら周りもパニックになるから
しゃがんで「落ち着いて!」と叫ぶ。

ストッキング履いてる女性はできるだけ脱ぐ。
火傷したら広がるから。
あとナプキンがいい止血帯になるから
覚えておいてください。

安否確認はダイアル171!

できるだけ安否確認で電話は使わないで!
救急ダイアルが混乱するから。

あったらいいもの
お金 水 ペンライト お菓子 携帯 応急セット ハンカチ ティッシュ

被災者のために持っている情報を無駄にしたくないので
日記にコピペして拡散してもらえると助かります。

出来る事をしましょう!!


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日本赤十字社にて近々、東北地方太平洋沖地震の義援金の募集が
実施される予定で、現在準備中のようです。
今後の予定についは日本赤十字社ホームページをご参照下さい。
http://www.jrc.or.jp/
 
ご賛同頂ける方は是非とも義援金募金へご協力下さい。
私も義援金募集が開始され次第、協力をします。

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安全な地域の遠い場所で暮らす私達に出来る事は限られるかも知れません。
しかし、募金等被災された方達に少しでも協力出来る事があるかも知れません。
何が出来るか、皆で考え、行動に移しましょう。
被災された方々の一日でも早い救助・復興を切に願っております。

江戸城 第八回

江戸城 第八回

【遺構】
江戸城坂下門
江戸城坂下門2
江戸城坂下門図
江戸城坂下門屏風図
江戸城坂下門屏風図2
江戸城坂下門です。現在は宮内庁の通用門として使用されているようで、櫓門が正面に配置されておりますが、一番下の図(江戸図屏風)でも確認出来るように、江戸期までは他の門同様、枡形を形成して正面には高麗門配置し、その先に渡櫓門が配置されていたようです。しかし、明治になり、正面にあった高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きを北面から東面に90度変えて、現在の場所に移築されたようです。わざわざなぜ?と言う感じですが、当時は出入口の門として使用する関係上、正面に向けたのでしょうか。その辺は良くわからないですが、西洋風に体裁を整える為と実用的にした結果そうなったのかも知れませんね。この坂下門ですが、幕末の江戸城で発生した水戸藩士によるテロ事件・・・桜田門外ノ変が有名ですが、実はその後に、この坂下門外でも似たような事件が発生しております。世に言う坂下門外ノ変です。桜田門の事件の方があまりにも有名なので、意外と知らない方も多いと思います。桜田門外ノ変同様、幕末を象徴する事件ですので、内容などを少し書いておきたいと思います。

【坂下門外ノ変】
坂下門外の変は、文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で尊皇攘夷派の水戸浪士6名が時の老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件です。その背景には様々な思惑や思想がありますが、すべてを語って行くのも限界があるので、概要を簡単に記したいと思います。

そもそもこの事件が起こる背景としては、桜田門外ノ変同様、幕府の政策として進められてきた、開国路線は攘夷思想を否定するものであり、今回はプラスアルファとして、皇室の権威の利用(和宮降嫁による朝廷との融和政策、公武合体によって幕府の権威を回復しようとする政策。また、朝廷を取り込む事により尊皇派を抑える狙いもあったものと思われます。)なども反感材料となり、その政策に対する反発が暗殺と言う形で表れたものと思われます。桜田門外ノ変で大老 井伊直弼が暗殺されたのち、その後を引き継ぎ実権を握ったのが、老中 安藤信正でした。この安藤の政策としては、開国路線については継承されてはいたものの、安政の大獄を引き起こした井伊直弼の強硬路線は否定しており、直弼の後、家督を継いだ井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させるなど、確かに安政の大獄は強引であり、行うべきではない政策であったとしています。事件後の水戸藩の処置に対しても、結局は沙汰やみの状態で事変前より取り沙汰されていた、勅書(戊午の密勅)返納ですら、要求しようとはしたものの、またもやうやむやとなり、返納される事はなく、現物は今も水戸に残されているはずです。正信は直弼と同じ轍を踏まぬ様、穏健政策を取りつつ幕府の権威回復に努めていたようです。その一環として、行われたのが公武合体の思惑を含めた、時の天皇の妹である和宮と14代将軍 徳川家茂との政略結婚でした。最初、この申し出を受けた、孝明天皇と和宮は要求を拒絶していましたが、幕府側としては諦めるわけにもいかず、再三にわたり圧力を掛けていました。それでも孝明天皇は「幕府がどうしてもというのなら、和宮の代わりに昨年生まれた自分の娘・寿万宮(すまのみや)を江戸へ送る。それがいやなら退位する。」とまで言い、降嫁を拒絶していました。しかし、それを聞いた和宮はそこまで自分を庇ってくれる天皇を思い、降嫁を受け入れる決意を伝えます。こうして、鎖国、攘夷の実行(7、8年〜10年の内に攘夷「鎖国復帰か攘夷戦争か」をすると言う実現不可能な約束。)をするとの約束などを条件にだされましたが、ほぼ思惑通り、和宮を将軍家へ降嫁させる事に成功しました。しかし、この事が後々、坂下門外ノ変へと繋がり、結局は幕府の権力失墜に拍車を掛ける結果になりました。また、この和宮降嫁以外にも公武合体政策、開国路線の一環として長州藩の長井雅楽(時庸)提唱の「航海遠略策」を承認するなど、個人的な意見としては、この安藤正信と言う人の政治手腕はそれ程、悪いものではなかったと思います・・・。

話は少しそれますが、この長州藩の長井雅楽提唱の「航海遠略策」、これは具体性には掛けていたものの、後の富国強兵・殖産興業、脱亜入欧などの思想に繋がる感じもします。内容としてはその当時、朝廷が幕府に求めていた日米和親条約(1854年)日米修好通商条約(1858年)の破約、鎖国攘夷の実行などは世界の大勢に反し、国際的な道義上も現況持ち得る軍事能力ではまったくもって不可能であると批判し、朝廷が求める鎖国も元々は、島原の乱を恐れた幕府が始めた政策に過ぎず、皇国の旧法ではない。また、勝てもしない無謀ないくさを仕掛けるよりも、積極的に航海を行い、通商で国力を高め、やがて世界諸国(五大洲)を圧倒し、向こうから進んで日本へ貢ぎ物を捧げてくるように仕向けるべきであるとしています。ある程度、諸外国通じた知識の持ち主であれば、この意見ももっともであると理解出来たことと思いますが、当時は尊皇攘夷の思想が大勢を占め、薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件なども経験する前であり、まだまだ、攘夷は可能であるとする考えが主流であり、この航海遠略策も単なる開国論であると見られていたのかも知れません。これも個人的な意見ではありますが、もし、この坂下門外ノ変が行われず、老中安藤信正の失脚がなければ、大筋は変わらずとも歴史はもう少し違ったものになっていたかも知れません。

さて話を元に戻し、和宮の降嫁や内容はどうあれ、井伊直弼の政権より引き継がれた、開国路線の継承などの安藤の政策に反発し、坂下門外ノ変は発生致しました。実行側の端緒としては万延1(1860)年に水戸藩の激派と桂小五郎・久坂玄瑞ら長州藩吉田松陰系の尊王攘夷派との間で結ばれた、水長の盟約があります。これは水戸藩の激派にて老中安藤信正の暗殺を実行し、その後、長州藩が幕政改革を断行すると言うものです。このような盟約があり、準備が整えられてきました。しかし、この盟約はいざ実行の段になった際、長州側の内情(桂小五郎らと結んだ、藩政実力者の周布政之助が、航海遠略説を持論とする公武合体派の長井雅楽と衝突して更迭され、藩地に逼塞させられた一件による内情の変化。)が変わっており、長州側より一度は延期が申し入れられたようです。しかし、水戸側は、この機会を逃せば、再度、挙を起こすのは困難であるとし、文久2年(1862年)1月15日を暗殺実行日と定めました。この実行については当初、宇都宮の尊皇攘夷派(宇都宮の儒学者大橋訥庵の一派)との提携がされており、共に実行する計画が練られておりましたが、決行直前になり、大橋らの宇都宮側同志から計画が露見し、宇都宮側のメンバーが捕縛されてしまいました。その為、結局襲撃自体は水戸側のメンバーが中心となり行われました。

文久2年(1862年)1月15日午前8時頃この日、計画は予定通り実行に移されました。実行した者は水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・川本杜太郎ら6名でした。もう一人水戸の川辺佐治右衛門と言う浪士も参加予定でしたが、実行当日に遅刻をしてしまい遅れて現場に駆け付けた時には既に同士は討たれており、それを見た川辺は江戸の長州藩邸(外桜田門と日比谷門の間、現在の愛宕通りの東側、日比谷公園西側部分に当たる辺りの場所のようですが調べて見ましたが、その正確な位置はハッキリわかりませんでした。)に駆け込み、桂小五郎に後事を託して自刃したとの事です。この時に安藤暗殺の理由を書いた、斬奸趣意書も一緒に届けられたようです。内容はこちらを参照下さい。桜田門外ノ変斬奸趣意書の下辺りに掲載されておりました。→リンクサイト:小さな資料室様
桜田門外ノ変周辺図
上記、図を見て頂くとわかると思いますが、当時の安藤の屋敷は坂下門の眼と鼻の先、ほんの100メートル程の距離でした。登城の刻限になり、安藤信正らの行列は城へ向かいちょうど、坂下門外に差しかかったところで、最初に直訴を装い、川本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕篭を銃撃、しかし弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、その銃撃を合図に他の5人は一斉に刀を抜き、駕籠に向かいました。一時、警護の者は混乱状態に陥り、その隙をついて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、安藤は背中に軽傷を負ったようですが、難を逃れ命奪われることなく、城内へ逃げ込みました。桜田門外ノ変以後、暗殺を想定し、登城の大名などは皆、警備は厳重であり、また、事前に計画自体が漏れていた事もあり、計画は失敗に終わりました。しかし、暗殺自体には失敗したものの、桜田門外ノ変に続いての幕閣襲撃は幕府権威の更なる失墜に繋がり事件後、安藤は老中罷免、更に隠居・蟄居を命じられ、所領の磐城平藩は5万石は2万石減封され、3万石とされてしまいました。暗殺は失敗に終わったものの、結果的には実行側の思惑通りとなったと言えるのではないかと思います。

事件後の水戸、長州などの処分ですが、実行犯一党の根拠地が宇都宮合った事や、関係者が偽名を使いなど、身元を隠していた為、水戸藩に処分が下ることはなかったようです。また、長州藩については川辺佐治右衛門より後事を託された事もあり、桂小五郎や伊藤俊輔(博文)らが、幕府から嫌疑を掛けられ糾問されたようですが、先にも名を挙げた公武合体派の長井雅楽が彼らを庇い、最終的には譴責を受けただけで放免となったようです。

簡単に記しましたが、桜田門外ノ変同様、幕末の大きな時代の転換となるきっかけとなった重大な事件です。城跡を見物する際には併せてこのような事件の背景などを見て行くとより幕末の混沌した時代を感じる事が出来ると思います。当時の政治の中心となった城ですので、歴史上様々な事件の舞台となっていた事を知るとやはり感慨深いものがありますね。

江戸城 第9回へ続く・・・

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江戸城 第七回

江戸城 第七回

【遺構】
江戸城日比谷見附跡
江戸城日比谷濠
江戸城日比谷見附周辺図
江戸城日比谷見附跡です。現在この場所には石垣と心字池と言う名称で水堀の一部が残っておりますが、その他の部分は日比谷公園として整備されています。皇居側の方には広大な水濠が残ります。この日比谷見附ですが、往時には枡形門が築かれ、城の外側から順に、高麗門、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれて作られ、有事に備えられていたようです。この日比谷御門は江戸城中で唯一、前面に橋がないタイプの門であったようです。記録によると、この日比谷御門の枡形は寛永6年(1629)に伊達政宗が築き、その周辺の石垣は浅野長晟が築方を勤めて築いたようです。
江戸城周辺祝田橋空撮
江戸城祝田橋石垣
江戸城の遺構ではないですが、日比谷見附跡から内桜田門へ向かう道の途中にある祝田橋ですが、この橋は江戸時代には存在していませんでした。明治39年(1906)に日露戦争の勝利を記念して凱旋パレードが行われたようで、その為に新たに作られた橋との事です。道路脇の石垣を良く観察すると、江戸期に作られた石垣と明治期に作られた石垣の違いがハッキリとわかります。往時の石垣が寸断され、新たに橋を作る為に手が加えられている事が良くわかります。
江戸城馬場先門図
江戸城馬場先門跡
江戸城馬場濠
江戸城馬場先門跡です。馬場先門は寛永6年(1629)兵庫橋の虎口として浅野長晟、加藤忠広により建造された典型的な内枡形門です。名称の由来は寛永12年(1629)門内に朝鮮馬場が置かれたことからこの名がついたとの事です。馬場先門は明治39年(1906)までは現存していたようですが、明治37年(1904)日露戦争大勝の祝賀行列の際にこの門を通過するとき、大混乱のため多数の死傷者が出た事と二重橋への道路工事を機に取り壊されてしまったようです。現在は馬場先門跡の碑が残るだけで、二重橋へ続く道路がキレイに舗装されており、残念ながら当時の面影を偲ぶ事は難しいと思います。馬場先門の付近の図を見て頂くとその右下辺り、馬場先門から大名小路を越えて右手に今年の大河ドラマ(2010年・龍馬伝)でもお馴染の土佐藩上屋敷がありました。現在の東京国際フォーラムの辺りです。この土佐藩の上屋敷に、嘉永6年(1853)、坂本龍馬が江戸で初めての剣術修行を行った際に宿所としていたと伝わっているようです。しかし、実際にはどうであったかと疑問の残るところです。土佐国内において当時、山内家家臣である上士と、長宗我部氏旧臣の郷士と言う、身分の差別が徹底されていた時代にあって、郷士である龍馬が藩主やその家族が滞在する屋敷を宿舎としていたとは考えにくいと思います。しかし、この馬場先門や大名小路の道を歩くくらいはしていたかも知れません。「龍馬が歩いた・・・」そんな事を想像しながら、見て行くと何だか、感慨深いものがあります。
江戸城和田倉門図
江戸城和田倉門木橋
江戸城和田倉門碑
江戸城和田倉門裏雁木
江戸城和田倉門枡形石垣
江戸城和田倉門石垣金具
江戸城和田倉門です。現在のこの場所には木橋が掛けられており、往時の雰囲気が残っています。この木橋を和田倉橋と言い、その奥には江戸城守衛の為に築かれた内郭門の一つ、和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形の石垣があり、木橋と一体となって門を形成していました。慶長7年(1602)頃に描かれた図で「別本慶長江戸図」と言うものがあり、この図にはすでに橋が描かれ「蔵の御門と云、士衆通行の橋」という記述があります。また、文政十二年・昌平坂学問所編の「御府内備考」と言う古書には、橋の由来として「慶長12年の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵ニ棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため和田倉門と呼ばれているとの事です。また、別の説で徳川家康が江戸に入った時にこの辺に和田倉と言う村落があったからその名が付いたとの説もあるようです。この和田倉門には鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持槍一組が常備されていたようで、警備には譜代大名で二〜三万石の大名が担当していたとの事です。既に門自体は焼失してしまっておりますが、木橋は昔のままに復元され、枡形の石垣もかなり完璧に近い状態で残っており、往時の様子を色濃く残しております。橋の中側にはしっかりと雁木が残っており、良く石垣を観察してみると、門の一部と思われる錆びた金具が確認でき、確かにこの場所に門があったと言う事がわかりますね。

江戸城第八回へ続く・・・

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江戸城 第六回

江戸城 第六回

【桜田門外ノ変】
ここからは具体的な暗殺計画の実態から襲撃の流れ、顛末までを簡単に記して行きたいと思います。

暗殺計画の実行犯18名
* 関鉄之介(群奉行与力 潜行、逃亡後捕縛、1862年斬罪。享年39)
* 岡部三十郎忠吉(書院番組の子 潜行、逃亡後捕縛、1861年斬罪。享年44)
* 稲田重蔵正辰(町方同心 襲撃に参加。現場で斬死。享年47)
* 山口辰之介正(目付 重傷を負い自刃。享年29)
* 鯉淵要人珍陳(神官 重傷を負い自刃。享年51)
* 広岡子之次郎則頼(小普譜組 負傷し自訴。その後死罪。享年21)
* 黒澤忠三郎勝算(大番組 負傷し自訴。その後死罪。享年33)
* 斎藤監物一徳(神官 負傷し自訴。その後、傷死。享年39)
* 佐野竹之助光明(小姓 負傷し自訴。その後、傷死。享年21)
* 大関和七郎増美(大番組 負傷し自訴。その後死罪。1861年斬罪。享年26)
* 森五六郎直長(使番 負傷し自訴。その後死罪。1861年斬罪。享年24)
* 蓮田市五郎正実(町方同心 負傷し自訴。その後死罪。1861年斬罪。享年29)
* 森山繁之介政徳(町方属吏 負傷し自訴。その後死罪。1861年斬罪。享年27)
* 海後磋磯之介(神官 潜行し、菊池剛蔵と改名。維新後は水戸県警察本部勤務。明治36年没。享年76)
* 杉山弥一郎当人(鉄砲師 負傷し自訴。その後死罪。1861年斬罪。享年38)
* 広木松之介有良(評定所傭 潜行、逃亡後文久二年捕縛。自刃。享年27)
* 増子金八(藩士の弟 潜行、明治14年没。享年59)
* 有村次左衛門(薩摩藩士 重傷負い自刃。享年23)

幕府大老・井伊直弼暗殺計画を立案し、指示を出したのは水戸藩・金子孫二郎及び、高橋多一郎でした。彼らは水戸藩の中での過激派で直弼の藩に対する弾圧に対し、暗殺を決意していました。安政7年(1860)暗殺実行の2日前の3月1日、江戸日本橋の待合茶屋山崎楼で現場指揮の藩士・関鉄之介以下6名の者と最終打ち合わせを行いました。決行は3月3日、上巳の節句であり、諸大名の登城日にあたり、午前10時までに城内に入ると言う決まりがありました。時間は午前9時、決行場所は外桜田門へ至るお濠沿いとなりました。諸大名の登城ルートとしては大手門か桜田門からとなっていましたが、直弼の彦根藩屋敷は桜田門と半蔵門の中間にあり、ルートとしては桜田門から入るはずであるからと言う理由です。この時にはその他5つの約束事を取り決め、一人ずつ山崎楼を後にしました。決行日前日の3月2日夕刻、品川の相模屋に関鉄之助以下、水戸藩士達は集合しました。薩摩藩からただ一人参加を認められた有村次左衛門は三田の薩摩屋敷に潜んでいた為、この場には居ませんでした。水戸藩士一同が揃う中、同じく水戸藩士の木村権之衛門と野村彝之介は金子孫二郎の最後の言伝を携えやって来ました。それは一同に、この襲撃はあくまで浪士が行う形を取る為、全員に脱藩届を書いてほしいと言う意向でした。計画の実行が水戸藩士であると藩主や藩そのものに禍が及んでしまう為、あくまで脱藩をした脱藩浪人達が勝手にやった事にする必要があったからです。一同は脱藩届を書き、木村・野村両名はそれを受け取り部屋を後にします。そして、襲撃メンバーの関鉄之介の口から昨日取り決められた5つの約束が一同に言い渡されました。1つ目は各自、武鑑を手にすること。武鑑とは当時の大名がすべて記載されている事典でこれを手にして、大名行列の見物人のふりをせよと言うわけです。2つ目は数人で協力し、斬り込むこと。官僚トップの大老です。襲撃者よりも多勢の護衛があり、これに当たるのは多勢に無勢で、不利である為、互いに協力をして成功をさせよと言うわけです。3つ目は一人が先頭に飛び出しまず、行列を止めること。4つ目は井伊大老の首を取ることが最優先事項であり、何が何でも成功させること。5つ目は負傷した場合、その場で自刃、または近辺の幕府重役邸へ行き、行動を弁明し、逃亡が出来れば京へ向かうこと。以上の5つが襲撃当日の約束事になりました。3月3日決行当日、品川の相模屋をバラバラに出発した浪士達は桜田門手前、愛宕山頂上の愛宕神社に集結しました。そこには薩摩藩から参加した、有村次左衛門の姿もありましたが、誰も言葉を交わさなかったとの事です。午前7時頃より、数名ずつ愛宕神社を後にし、暗殺実行犯18名は雪降る桜田門外へ向かいました。
江戸城桜田門外ノ変図

上記図の赤線が桜田門へ向かう井伊家の大名行列の進行ルートです。桜田門まではおよそ600メートル程の距離であったようです。そして・・・
江戸城桜田門外ノ変図3

上記図の様に、現場へ着いた実行犯達の内、8人がお濠と逆の桜田門向かって右側へ場所を取り、残り10人がお濠側で待機しました。それぞれ固まらないよう、適当に距離を取り、見物人に紛れました。雪は降り続いていましたが、思ったよりも人の往来も多く、大名の登城行列見物の人が道を空けていました。3月3日午前9時、道の左右に別れた18人は井伊家の行列と並行に進みながら襲撃の合図を待ちました。そして行列の先頭が桜田門へ差し掛かったところで突然「直訴」の声が上がり、行列が止まると同時にギャーと言う叫びがあがり、先頭の武士が斬られました。これに慌てた、供回りの武士達は急ぎ先頭へ走りだし、井伊大老を乗せた駕籠の周りががら空きになりました。それを待ち構えていたかのように、一発の銃声が上がりました。これが斬り込みの合図でした。17人の実行犯達は駕籠をめがけて突進して行きました。その中で一人、関鉄之介だけはこれに加わらず、事の成り行きを見ていたとの事です。最初に稲田重蔵が、がら空きの駕籠へ刀の先を突き刺し、これで直弼は動けなくなりました。駕籠の周辺では斬り合いが始まり、この時稲田も斬り殺されました。そして、稲田が刺した駕籠の反対から有村が突撃し、駕籠を開けすかさず、大老・井伊直弼の首級を上げました。この首を確認後、どこかから引き上げの声が響き、襲撃実行犯達は井伊家屋敷とは反対側へ引き上げを開始しました。
江戸城桜田門外ノ変図2

上記図は襲撃後の実行犯達の逃走経路と自訴、自害の現場を記しております。襲撃後、彦根藩士の多くが傷付き動けない状態でしたが、その内余力のある一人が首を持った有村の後を追い、背後より袈裟掛けに斬りつけ、直弼の首を打った有村自身も深手を負いました。幕府最高権力者である大老このがわずか15分の間で殺害されると言う考えられない事態が発生してしまったのです。その後、深手を負いつつも有村は直弼の首を持って、和田倉門を過ぎ、辰ノ口にある若年寄・遠藤但馬守邸まで辿り着くが、血だらけの人物を見た門番達は門を開けずにおり、有村はその場で切腹、しかし、死に切れず、遠藤家家臣に邸内へ担ぎ込まれたが、そこで絶命しました。後日、直弼の首は遠藤家より彦根藩へ返されたとの事です。有村以外の者もそれぞれ、逃亡を図り、ある者は自訴、ある者は自害果てて行きました。襲撃時の現場指揮者の関鉄之介はその後、逃走を続けていたが、文久元年(1861)10月に越後湯沢で捕えられ、文久2年5月に斬首されました。桜田門外の襲撃実行犯18名の内、明治まで生き延びたのは、海後磋磯之介と増子金八のわずか2名のみでした。また、大老襲撃計画を立案した金子孫二郎は京へ逃亡したが、3月9日四日市で捕えられ、翌年7月に死罪、もう一人、高橋多一郎も3月23日、大阪で追手に発見され、四天王寺境内で逃げ切れない事を悟ったのか、割腹自殺をはかり死亡しました。時の幕府最高権力者の暗殺と言うあり得ないテロにより幕府の権威そのものが地に落ち、時代は明治維新へと加速されて行くことになりました。この幕末の江戸城で起こった幕府要人暗殺を謀ったテロ事件は桜田門外ノ変ばかりがクローズアップされておりますが、その後にも似たような襲撃事件が起こっております。井伊大老亡き後の幕府の実権を握ったのは老中・安藤信正でしたが、基本政策としては直弼と同じでしたが、公武合体を推し進めておりました。しかし、時の孝明天皇はこれに断固反対、拒絶の姿勢を崩しませんでした。すると巷に好ましくない噂が流れました。老中は孝明天皇の廃帝を企てていると言うものです。この噂を聞いた尊皇攘夷派の水戸藩士達は激怒。更に、信正の積極的な諸外国公使と交渉をする行為を見た攘夷派は信正を国賊と見なして行きました。そして、文久2年(1862)1月15日江戸城坂下門外で水戸浪士6名により老中・安藤信正の襲撃事件が発生しました。世に言う「坂下門外ノ変」です。この事件では襲撃者6名全員がその場で斬殺され、信正自身は一命を取り留めましたが、負傷し、同年4月に老中職を辞任してしまいました。桜田門外・坂下門外、この2つの変は共に尊皇攘夷派の水戸浪士によって引き起こされたものでありますが、開国反対の攘夷派の全国の志士達の総意であったものと思われます。明治維新よりわずか6年前の出来事です。この一連の襲撃事件が幕府権力そのものの権威を地に落とし、体制は次第に朝廷へと移って行きました。仮にもし、桜田門外ノ変がなく、井伊直弼が大老であり続け、幕府中心の権力維持を謀ったとしても、時代の流れは如何ともし難く、いづれは旧体制から脱却し、倒幕、新体制の樹立、明治維新へと流れて行ったものと思われますが、この事件をきっかけに時代の流れが加速された事は事実であろうと思います。

今年の秋辺りに「桜田門外ノ変」と言う映画の公開が行われるようです。映画と併せて、現地を見てみるのも良いかも知れませんね。

江戸城 第7回へ続く・・・

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江戸城 第五回

江戸城 第五回・・・

【遺構】
江戸城外桜田門図
江戸城外桜田門
江戸城外桜田門2
江戸城外桜田門3
江戸城桜田門です。清水門、田安門と並び、この桜田門も昭和36年に国の重要文化財に指定されており、見事な外枡形門の形状がほぼ完璧な形で残されております。現存する江戸城の門の中では個人的には一番美しい門ではないかと思います。四方を幅広な水掘に囲まれ、更にその対岸には高い土塁と石垣が配置され、鉄壁な防衛拠点として機能を有しています。天正18年(1590)の徳川家康入城当時は、小田原口門と呼ばれる扉のない門のような柵戸があったようですが、寛永13年(1636)に西の丸造営に伴い、現在の枡形門形式に作り直されたようです。桜田門の名前の由来としては、古来よりこの周辺を桜田郷と称しており、三の丸の桜田門(現在の桔梗門)と相対し三の丸の門を内桜田門、西の丸下の門を外桜田門と呼んでいたようです。

【桜田門外ノ変】
この桜田門と言えば、幕末動乱期に起こった有名な事件「桜田門外ノ変」があります。今回は少しこの事件について書きたいと思います。桜田門外ノ変・・・この事件が発生していなければ、恐らく、明治維新はもう少し先に延び、歴史は大きく変わっていた可能性があります。時の徳川幕府の官僚のトップである、大老・井伊直弼を政治の中心である江戸城の前でたかだか一介の藩士に過ぎない人間達に暗殺されてしまったわけです。今で言えば、国会議事堂の前で時の首相が暗殺されてしまうようなもので、現況の政治権力そのものの権威を否定する行為であると言えます。なぜこのような事が起こってしまったのか?それは将軍後継問題と開国・条約締結問題で揺れる政局を権力のトップによる強権によって強引に推し進めた結果と言えます。嘉永六年(1853)ペリー提督率いる黒船の一団が浦賀へ来航し、開国を迫ってきました。時の将軍は一二代家慶ですが、彼は来航直後に身罷り、跡を継いだのは嫡男家定ですが、この将軍が少々問題があり、おかしな癖を持ち、子供を作る事も出来なかったようです。その為、兼ねてから家慶は後の布石として、水戸徳川家当主斉昭の七男・七郎麿を家慶の家系である一橋家の養子とし、自らの一字を与えて一橋慶喜と名乗らせ、この慶喜に徳川政権の行く末を託したと言われております。この慶喜は利発・英明の評判が高く、家慶の期待もさぞ大きかったのでしょう。しかし、この布石として用意した後継者が後に大きな問題となってしまったのでした。暗愚な将軍家定没後に家慶の思惑通り、慶喜にすんなりと将軍の座が渡れば良かったが、事は上手く運ばず、幕府の保守派と開明派に別れて激突、政局の混乱を招いたのです。最初に口火を切ったのは、福井藩主・松平慶永でした。彼は次期将軍には利発英明な慶喜が望ましいとの声を上げ、その声はたちまち広がり、薩摩の島津斉彬、土佐・山内容堂、伊予宇和島・伊達宗城などの有力外様から幕閣の老中首座・阿部正弘や親藩水戸・徳川斉昭、越前福井・松平春嶽などが慶喜擁立に賛同しましたが、その声には反対の声も上がりました。家定の生母・本寿院です。開国と言う、徳川幕府始まって以来の大問題が発生し、なんと、家定存命中にも拘わらず、次期将軍には利発英明な慶喜をとの声が上がったわけです。それは家定が暗愚・愚鈍と言っているようなもので、実の母としては何とも面白くない話であり、個人的にもこの辺に反対を唱えた理由があるように思われます。現将軍の生母から上がったこの声に呼応したのが、紀伊の徳川慶福擁立の一派です。この慶福擁立の一派を「南紀派」、反対の慶喜擁立の一派を「一橋派」と言います。まず、慶喜の実父でもある、水戸・徳川斉昭が朝廷に慶喜将軍後継を働きかけたが、それに気づいた斉昭嫌いの老中・堀田正睦が対抗策として、安政五年(1858)に南紀派の中心人物、彦根藩主・井伊直弼を大老に推挙しました。そして、この年の6月19日に朝廷の勅許を待たずに、直弼は独断で「日米修好通商条約」と言う不平等極まりない条約を結び、将軍後継問題に関しても、6月25日に諸大名を招集し、次期将軍は紀州・徳川慶福に決定したと正式に発表してしまったのです。この対応に激怒した水戸・徳川斉昭を中心とした一橋派の面々はもちろん反論をし抗議したが、まず、条約締結について、直弼としては政治は幕府の専権事項であると言う立場を崩さず、反対意見を撥ねつけたのでした。今で言えば、国会で決めた事を天皇陛下の許可を事前に得ていないので、その決定を覆しなさいと言うのは立憲君主制を取っている我が国に置いて、その意見はおかしな話であるので、覆すわけにはいかないと言っている感じです。そして、将軍後継問題に関しても、血統的には慶喜よりも慶福の方が将軍家に血筋的に近く、当時の感覚からすれば、反論の余地もない正論で持って反対意見を抑えて行きました。こうしてこの直弼によって、開国問題・将軍後継問題共に一挙に解決したかに見えましたが、事はそう簡単ではなく、反対派の中で徐々に反直弼とも言うべき、動きが現れ始めたのでした。その動きに機敏に反応した直弼は対応策として実行したのが有名な「安政の大獄」です。最初のきっかけとしては水戸藩への密勅を画策した梅田雲浜の逮捕に始まり、密勅に関係する人間を容赦なく次々に捕え、断罪して行きました。また、藩士や家臣だけに留まらず、藩主クラスの人間や公家に至るまでも次々に処罰して行きました。処罰の理由についてもかなり強引で、密勅だけでなく登城日でない日に登城したと言う不時登城の罪と言う何とも強引な言い分でも処罰していったわけです。
安政の大獄、主な処罰内容と処罰者としては・・・
死刑・獄死
* 吉田松陰………長州毛利大膳家臣、斬罪
* 橋本左内………越前松平慶永家臣、斬罪
* 頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪
* 安島帶刀………水戸藩家老、切腹
* 鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣、斬罪
* 鵜飼幸吉………水戸藩家臣、獄門
* 茅根伊豫之介…水戸藩士、斬罪
* 梅田雲濱………小浜藩士、獄死
* 飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪
* 日下部伊三治…薩摩藩士、獄死
* 藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死
* 信海……………僧侶、月照の弟、獄死
* 近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死
* 中井数馬………与力、獄死
隠居・謹慎
* 一橋慶喜………一橋徳川家当主
* 徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)
* 徳川慶勝………尾張藩主
* 松平春嶽………福井藩主
* 伊達宗城………宇和島藩主
* 山内容堂………土佐藩主
* 堀田正睦………佐倉藩主
* 太田資始………前掛川藩主
* 川路聖謨………江戸城西丸留守居
* 大久保忠寛……江戸城西丸留守居
* 中山信宝………水戸藩家老(9月27日に免除)
* 松平忠固………上田藩主
* 本郷泰固………川成島藩主
* 土岐頼旨………大目付・海防掛
* 石河政平………一橋徳川家家老
隠居・差控
* 鵜殿鳩翁………駿府奉行
* 浅野長祚………小普請奉行
御役御免・差控]
* 板倉勝静………備中松山藩主
* 平岡円四郎……一橋徳川家家臣
* 黒川雅敬………一橋徳川家家臣
* 佐々木顕発……勘定奉行
* 高須鉄次郎……外国奉行支配調役
永蟄居
* 徳川斉昭………前水戸藩主
* 岩瀬忠震………作事奉行
* 永井尚志………軍艦奉行
譴責
* 松平頼胤………高松藩主
* 松平頼誠………守山藩主
* 松平頼縄………常陸府中藩主
甲府勝手
甲府勤番への左遷
* 平山敬忠………書物奉行
* 木村勝教………評定所組頭
遠島
* 鮎澤伊太夫……水戸藩士
* 小林良典………鷹司家家臣、獄死
* 六物空満………大覚寺門跡家士、獄死
* 日下部裕之進…薩摩藩士の子、獄死
* 勝野森之助……旗本家来・勝野正道の子
* 茅根熊太郎……茅根伊予之介の子
* 太宰八郎………松平信古家臣
重追放
* 吉見左膳………宇和島藩家老、伊能友鴎に改名
中追放
* 池内大學………儒者
* 近藤茂左衛門…信濃国松本町大名主(逮捕者第1号)
* 丹羽正庸………三条家家臣
* 森寺常邦………三条家家臣
* 三国大学………鷹司家家臣
* 伊丹蔵人………青蓮院宮家家臣
* 入江則賢………一条家家臣
* 藤森恭助………古賀謹一郎家臣
* とき……………宝寿院修験者
所払
* 宇喜多一漾帖腸莢函⊇衒中病死
* 宇喜多松庵……画家
* 蒲市正…………二条家家臣
永押込
* 鮎沢力之進……鮎沢伊太夫の子
* 鮎沢大蔵………鮎沢伊太夫の子
* 山科正恒………御倉小舎人
* 春日仲嚢………久我家家臣
* 森寺常安………三条家家臣
* 長谷川宗右衛門…高松藩士
* 長谷川速水……長谷川宗右衛門の子
* 山国喜八郎……水戸藩士
* 海保帆平………水戸藩士
* 加藤木賞三……水戸藩士
国許永押込
* 横山湖山………松平信古家臣
* 菅野狷介………姫路藩士
* 大郷巻蔵………鯖江藩士
* 林某……………鯖江藩士
* 小南五郎………土佐藩士
* 大山綱良………薩摩藩士
* 大久保要………土浦藩士、幽閉中病死
* 舟橋亘理………関宿藩士
押込
* 津崎矩子………近衛家家臣(9月28日に免除)
* 飯田忠彦………有栖川宮家家臣
* 豊島泰盛………有栖川宮家家臣
* 高橋俊璹…………鷹司家家臣
* 山田時章………青蓮院宮家家臣
* 富田織部………三条家家臣
* 大沼又三郎……下田奉行手付出役
* 飯泉春堂………飯泉喜内の養子
* 大竹儀兵衛……水戸藩士
* 岩本常助………幕臣
* 藤田忠蔵………幕臣
* 筧承三…………岡部豊常家臣
* 勝野保三郎……勝野正道の弟
* 勝野ちか………勝野正道の妻
* 勝野ゆう………勝野正道の娘
* 三木源八………水戸藩士
* 荻信之介………水戸藩士
* 菊池為三郎……水戸藩士
急度叱り置き
* 山本とよ………山本貞一郎の妻
* 山本さい………山本貞一郎の娘
* 山本うめ………山本貞一郎の娘
手鎖
* 伊十郎…………小網町名主
* 源左衛門………信濃国松本町の町人
* 源助……………江戸神田町の町人
その他
* 若松永福………三条家家臣、洛中洛外江戸構い(追放)
* 世古恪太郎……伊勢松坂の百姓、江戸構い(追放)、紀伊殿領分所払い
捕縛前に死去
* 梁川星巌………漢詩人
* 月照……………僧侶
* 山本貞一郎……浪人
* 勝野正道………陪臣
朝廷への処分
* 尊融入道親王……青蓮院門跡、隠居・慎・永蟄居
* 一条忠香…………内大臣、慎十日
* 近衛忠煕…………左大臣、辞官・落飾
* 鷹司輔煕…………右大臣、辞官・落飾・慎
* 鷹司政通…………前関白、隠居・落飾・慎
* 三条実万…………前内大臣、隠居・落飾・慎
* 二條齊敬…………権大納言、慎十日
* 近衛忠房…………権大納言、慎
* 広橋光成…………前権大納言、慎
* 万里小路正房……前権大納言、慎三十日
* 正親町三条実愛…権中納言、慎十日
* 久我建通…………右大将、慎
* 有馬範顕…………権中納言、参朝停止

などなど、箇条書きにしましたが、身分の上下を問わず相当な数に上ります。

この安政の大獄後、よもや逆らう者も消え失せ、直弼の思惑通りの展開になると思われましたが、またまた事は上手く運ばず、この事が後に自身の破滅を招き、尚且つ、幕府そのものの権威を挫き、明治維新を加速させる結果になるとはこの時はまだ直弼自身、想像もつかなかった事と思います。
ここで水戸藩士が直弼暗殺に至った経緯を簡単に記しておきますと、まず、先にも書いた通り、米国との「日米修好通商条約」。これは表向きは幕府がが朝廷の許しも得ずに独断で行った条約締結ですが、事実上直弼の独断で行われた事は明らかであったろうと思われます。この事は時の天皇・孝明天皇の怒りを買います。孝明天皇の基本スタイルとしては、開国には反対であり、外国との条約など、とても容認出来ないと言う姿勢です。しかし、そんな天皇の意向など無視し、幕府は独走状態となって強引に事を推し進めていきます。この独走状態を危惧した朝廷は無許可の条約締結を詰問する勅許を出し、同時に尊皇攘夷の水戸藩にも勅許を下しました。通常、勅許は開府依頼、幕府を通して行われておりましたが、今回の勅許は幕府を無視し、秘密裏に直接水戸藩へ下されました。世に言う「戊午の密勅」と言われるものです。内容としては幕府は独断で事を行わず、御三家、有力大名と協力し、また、朝廷と幕府が一体となって事にあたればうまく行くであろうと言う、いわば公武合体の示唆であり、今までのような幕府単独での政治を否定するものでした。直弼はこの内容に衝撃を受けました。直弼は初代将軍・家康以来、政治は幕府の専権事項であり、朝廷が口を挟むものではないと言う、幕府中心主義的考えを持っていました。このような考えを持っていた直弼にとっては、到底許せるような内容ではありません。そこで、直弼は朝廷や水戸藩に圧力を掛けて行きます。これも安政の大獄と言われるものの一貫であり、水戸藩への圧力を緩めずに掛け続けた結果、水戸藩の過激派の中で井伊大老暗殺計画が進められる事となりました。この暗殺計画は一般的に水戸藩独自のものと思われがちですが、同時に薩摩藩でも同じような計画が練られておりました。反幕府の朝廷工作を行った薩摩藩士の逮捕処分や逃亡を図った西郷吉之助(隆盛)の自殺未遂など弾圧は薩摩にも容赦なく行われていた為です。そして、この薩摩藩の中で精忠組と言う一派が水戸藩士と連絡を取り合い、幕府閣僚の襲撃を企てておりましたが、事前に薩摩藩の上層部に計画が漏れ、潰されてしまいました。後に大老暗殺の実行犯に薩摩藩士が参加しているのはこのような繋がりがあった為と思われます。こうしてこの安政の大獄の圧力は水戸藩や薩摩藩に掛け続けられ、前水戸藩主・徳川斉昭への国元永蟄居、現藩主・徳川慶篤の謹慎、水戸藩家老・安島帶刀の切腹など過酷な処分と朝廷より水戸藩に下された密勅の返納強要などに憤りを募らせた水戸藩士の怒りが頂点に達し、大老・井伊直弼暗殺計画は一気に動き出しました。

江戸城 第六回へ続く・・・

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江戸城 第四回

江戸城 第四回・・・

【遺構】
江戸城千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵半蔵濠
江戸城千鳥ヶ淵2
江戸城千鳥ヶ淵桜2
江戸城千鳥ヶ淵桜3
江戸城千鳥ヶ淵桜4
江戸城千鳥ヶ淵と半蔵濠です。写真をご覧いただいてもわかる通り、春の時期は桜の名所ともなり、素晴らしい景観を楽しむ事が出来ます。元々、この千鳥ヶ淵と半蔵濠は一つの濠でしたが、1900年(明治33年)に道路建設の為、埋め立てられ、それぞれ別々のお堀となったようです。この千鳥ヶ淵は江戸にて開府後の江戸城拡張工事の際、局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られたお堀です。その局沢川ですが、家康入城当時の正確な流路はわかっていないようで、恐らく、当時の江戸城の前面に広がる日比谷入江へ流れ込んでいたものと思われます。また、千鳥ヶ淵の形状を観察して見ると、江戸城の他の濠と見比べてもわかりますが、キチンと整備されたものと言うよりも、元々ある自然の地形を生かして作られた濠のように思います。太田道灌時代の江戸城の位置については諸説あるようですが、個人的にはやはり、その後の江戸城本丸及び、2の丸辺りを中心に築かれていたものと思われ、その当時も恐らく、その局沢川を天然の要害として利用していたのではないかと思います。あくまで想像ですが・・・。
江戸城半蔵門2
江戸城半蔵門

江戸城半蔵門図
江戸城半蔵門です。この半蔵門の名前の由来は、当時の江戸城の警備を担当した徳川家家臣服部正成・正就父子の通称でもあり、代々服部家で使われてきた通称名「半蔵」の名に由来するようです。有事の際には将軍を甲州街道から幕府の天領である甲斐甲府へと安全に避難させる為に設置された門であり、その意味ではこの半蔵門は江戸城の搦手門にあたると言えます。当時のこの場所には服部半蔵を組頭として与力30騎、伊賀同心200名が置かれ、門外には組屋敷が構えられ、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたようです。天正10年に起こった本能寺の変に際しての家康の伊賀越えでの服部半蔵の功績が影響しているかのようなお役目ですね。この半蔵門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていたようです。表から見えている現在の門ですが、この門は創建当時の門ではなく、和田倉門に設置してあった高麗門を移築したもののようです。当時の門は残念ながら、太平洋戦争当時に焼失してしまったとの事です。ここで少し話は反れますが、服部半蔵と言うとのちの、講談や小説、漫画などのフィクションでも取り上げられように、一般的に忍者のイメージが強いですが、実際に忍者と言えるのは初代の服部半蔵(半三)保長までであり、忍者として有名な2代目の服部半蔵正成は伊賀同心の支配役ではあったものの、忍者働きと言うよりも甲冑を着て足軽を率いた武士としての功績の方が大きかったようです。

江戸城 第五回へ続く・・・

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江戸城 第三回

江戸城 第三回・・・

【遺構】
江戸城清水門付近図
江戸城清水門付近の図です。この図を見て頂くとわかりますが、典型的な枡形門となっており、構造としては内枡形の形式を採用しています。江戸城は比較的外枡形の門が多い中、前回アップした田安門もこの清水門も内枡形を採用しており、特にこの清水門の枡形の作りは秀逸です。
江戸城清水門付近図2
上記の図に手を入れたもう一枚の図ですが、緑の折れ矢印のが攻城側の侵入経路となり、赤と青の部分が籠城側の攻撃ポイントとなります。まず、攻城側としてはやはりこの北の丸の周囲ぐるりには石垣や土塁で築かれた手掛りのない急斜面な切岸と深い水堀とで守られており、中世の装備でその堀を渡り石垣や土塁を登って攻撃する事はかなり難しいと思われます。そうなると当然、城の虎口へ人数が集中し、一気に攻め寄せてくるものと思いますが、その攻城側の敵を籠城側ではまず、土橋と高麗門までの間で殲滅を謀ります。高麗門の手前は箱堀となっており、有事の際には恐らく、掛けられている木橋を落とし渡れないようにするつもりであったものと思われます。何とか、その高麗門を超え、城内に侵入しても次に控えている枡形内で攻城側は3方向からの攻撃に晒される形となります。更に攻め込むにはその3方向からの攻撃に耐えながら、頑強な櫓門を通らなければならず、ここでも相当の犠牲がでるのは必至です。更にその櫓門を通り、中に侵入したとしても第2の枡形によって又しても、3方向からの攻撃に晒されるわけです。枡形内へ侵入し、奥へ行こうとするも割と高く作られた石段と直線ではない通路に遮られ、また、上からの攻撃にも晒され、瀕死の状態で白兵戦に持ち込めば、石段上から攻め寄せる籠城側の兵により位置の優位性もあり殲滅する事も可能になると思われます。その間に城門を固く閉ざし、再度立て直しを図る事も可能であろうとも思います。江戸城の縄張りを担当したのは当時、築城の名手として有名な藤堂高虎ですが、この辺のところにも、この高虎の意見が取り入れられているものと思われます。因みにあまり知られていない話ですが、家康からこの江戸城のプロデュースを命じられた高虎は流石に荷が重く、誰か別の者にと一度は固辞したようです。天下の主の居城その縄張りと言えば、軍事上の最高機密であり、誰でも荷が重すぎると感じるのは当然ですね。しかし、家康は辞退を許さず、自分も見るから2人で相談して決めようと説得したようです。実際に出来あがった図に朱や墨を入れ訂正をしながら共同作業の様に進められたようです。この話を見ても、この藤堂高虎と言う人は抜群の築城センスとデザイン能力を持ち、また、家康に対する忠義心の厚さを高く買われていたのだと思います。
江戸城清水門高麗門
江戸城清水門櫓門
江戸城清水門櫓門2
田安門と同じくこの江戸城の清水門も国の重要文化財に指定されております。この清水門も江戸城に現存する門の一つで徳川家康の信任も厚かった安芸広島藩主・浅野長晟によって寛永元年(1624)に建てられものであり、万治元年(1658)に一度修築されたようです。名前の由来としては、中世代、この辺りに清水寺と言うお寺があったからとも、この辺りから清水が湧き出していたからとも言われているようです。櫓門の上にある鯱には葵の御紋も見られます。枡形内もコンクリートなどで整備される事もなく、江戸城内の門の中で一番往時の雰囲気を残している門だと思います。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」では、この門外の土橋を渡った先に火付盗賊改方、長谷川平蔵の役宅があったと言う設定になっており、小説の世界を想像しながら見て回るのも面白いかも知れませんね。実際の史実ではこの場所に長谷川平蔵の屋敷はなく、東京、墨田区菊川にあったようです。
江戸城清水門枡形
江戸城清水門枡形2
先程も記載した江戸城清水門の枡形です。上が高麗門を入ってすぐの最初の枡形、下が櫓門を通ったところにある枡形です。どちらも高い土塁と石垣に囲まれ、身を隠す場所もなく、絶好の殺戮ポイントと化しております。
江戸城清水濠
江戸城清水門石垣上から水堀
江戸城清水門石垣上から水堀2
江戸城清水門箱堀
江戸城清水門の水堀です。写真ですと少々わかり辛いですが、相当な高さの石垣であり、水堀も広大でかなりの幅があります。縄張りを担当した藤堂高虎の築城の特徴として高い石垣があげられ、この江戸城にも例外なく高石垣が見られます。それとは対照的に同年代に活躍したもう一人の築城の名手 加藤清正は石垣の反りを重視していたようです。確かに熊本城などを見てみると、武者返しと呼ばれる美しい反りの石垣が見られ、そう言った特徴の差から高虎流築城術と清正流築城術は良く対比して扱われています。また、高虎は堀の設計にも特徴があるようで、自身の居城として築いた、今治城などには石垣の下に犬走りと言う、空間を作ってありますが、この江戸城にはそうした作りは見られません。犬走りの特徴としては、弱い地盤の強度を補う効果があるようですが、特にそのようなものを用いなくても、江戸城の地盤は重い石垣にも十分耐えられる強度があったのでしょう。

江戸城 第四回へ続く・・・

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